双極性障害を受け入れ人生を楽しむ

うつ病から双極性障害になり もう10年、障害を受入れ、これからの人生をドラクエ10・釣りなどやりたいことして楽しく生きていきます

うつ状態と躁状態になる前後の行動と思考(2)

ピイットブルです
 
 
今回は 
うつ状態と躁状態になる前後の
行動と思考(1)の続編です。
 
 
1回目の「躁状態」になる直前、
どのような行動をして
どのような思考をして
いたかをお話しておきたいと思います。
 
 
  1. 10年前のあの日の「うつ状態」
  2. 1回目の「躁状態」
  3. 2回目の「躁状態」
 
 
2.1回目の「躁状態」
 
それは今から5年前にさかのぼります。
下記のことがいろいろと起きました。
 

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当時の仕事

 
契約時給社員というよくわからない契約で
物流倉庫にて検品や出荷の業務をしていました。
 
 
シフト制になっており、
1か月のうち12日ほどの休日があり
時差出勤や平日休みが結構多いところでした。
 
 
直属の班長と上手く折り合えず、
更にその上の現場責任者の
社員にも目をつけられていました。
 
 
入社4年目ということもあり、自分的には
 
「この仕事は、ぜんぜん楽勝だ」
 
「なぜこの業務は、こんなに非効率なんだ」
 
「夜遅くまでドラクエをやって
       出勤してもなんら影響なし」
 
など
 
完全に自分が躁の状態に向かっていくとは
思いもしなかったのです。
 
 
とある日、
急に「よしもう、この仕事はやめよう」と
辞表の思いを上司に叩きつけました。
 
 
「残っている有給休暇を全て使うので
しばらく休み、
使い切ったら辞めますと・・・」
と言いました。
 
 
 
 
 
 
初めての躁状態
 
有給で過ごしている頃のことでした、
突然「多弁」「多動」「誇大妄想」「不眠」などの
状態が始まったのです。
 
家族および親戚にどんどん介入していって
手当たり次第に、なにか自分の主張を
押し付けているのです。
 
 
 
 
 

叔父さんの死

 
躁状態になる少し前、大変お世話になった私の叔父が
孤独死で亡くなっていたのです。
 
「もの凄いショックでした」
 
よく一緒に釣りに行ったりして、普段は親族の話は一切
否定して聞かないのに私の話はよく聞いてくれました。
 
叔父は生活が苦しかったので「生活保護」を私が勧めて
ちゃんと申請してくれたこともありました。
 
 
 
 
 

錯乱状態・目がおかしい

 
完全に躁状態になっている自分を、
弟(福祉関連NPO代表)は冷静な口調で
 
「兄貴、目がいっちゃってるよ」
「おかしいよ」
 
と言われ、さらに私は更に激高し
 
「お前こそ、おかしいんだ」など
手の付けられない状態です。
 
「俺を入院させるというなら、お前が責任取れ!」
と言いました。
 
後日、弟は私の会社へ説明に行き傷病手当の申請へ。
 
 
 
 
 

車から飛び降りる

 
緊急入院させるということで、家族・親戚中が
集まる中、これから私を県内の精神病院へ車で
向かうというので、私を含め5人でその精神病院へ
行く途中でした。
 
 
1キロあたり走ったとき、車が信号を右折する瞬間、
私は隙をみて車から飛び降りました。
 
 
今思うと恐ろしいことしたと思います。
幸い、全くの無傷でそのまま自宅に向かい
歩き始めていました。
 
 
後から車で追いつかれたのはいうまでもありません。
 
 
今度は絶対に逃げられないように、
後部座席の真ん中で、囲まれた状態で病院まで直行。
 
 
 
 
 

閉鎖病棟・完全隔離

 
精神病院に到着すると、
 
母親が先生に話をしていること
親戚2人が自分を落ち着かせていること
くらいしか記憶にありません。
 
しかし、その後の記憶はありました。
 
閉鎖病棟のしかも誰もいないところに完全隔離
 
手元には県知事の印が押された、身体拘束の
ことなどが書かれた紙 
 
その紙を監視カメラに向け
何かひらすら文句を言っている自分
 
コンクリートの壁を蹴っている自分
 
その壁に頭を何度も打ち付けている自分
 
 
 
 
 

入院生活(1)

 
その後、何日経ったかわかりませんが、
入院生活のはじまり
 
他の患者さんもいる解放された1カ月の入院生活
 
とても親切な看護師さんたちの対応
 
毎日3個の菓子パンを食べたことにより16キロ増
 
この入院生活で一度も先生に会ったことがない?
 
次の受け入れ先の精神病院が見つかったので転院
 
 
 
 
 

転院 そしてまた・・・!」

 
その後、地元の精神病院に転院
 
「なにもしてないのに」
「今までの病院で他の患者さんと
       共同生活して大丈夫なのに」
 
即、閉鎖病棟・隔離・身体拘束へと・・・
・・・なぜ?・・・
 
窓のない隔離部屋・隅に古い便器・1台の拘束用ベット
唯一看護師さんたちが見える鉄格子の小窓
 
食事以外の時間は、常にベットに拘束!
 
トイレに行きたいのに「叫んでもなかなか届かない声」
 
2・3日か?経ったところで、ようやく食事の時だけ
看護師さん達、監視の下の食事
 
自分を自傷するのか?他者を傷つけるのか?
箸は出されず、プラスチックのスプーン
 
 
 
 
 

入院生活(2)

 
その後、他の患者さんもいる閉鎖病棟へ移動
 
時間が経過するのがとんでもなく遅い
 
何度も何度も今日の献立をみる
 
日々そこでの叔母さまと男性2人と私の4人麻雀
 
「早く退院したい」と切に願う
 
楽しみは面会時の差し入れのマック
 
 
 
以上が、
1回目の「躁状態」になったときの経緯です。
 
記憶が完全にあること
曖昧で不鮮明部分があること
 
どちらもありますが、
 
投薬による治療
規則正しい入院生活
 
により、気分が落ち着き自宅療養までいき
月1回の外来受診で安定していることは
良いことだと思っています。
 
 
次回は、2回目の「躁状態」をどこかのタイミングで
お話できれば幸いです。
 
それではまた